はじめまして、ちいです。
本名がちさとで、昔から ちいちゃん とか ちい とか呼ばれているので ちい にしました。
身長は155センチでそんなに小さくないと自分では思っていますが、
ちいさいと言われるのでちっちゃいちいちゃん。笑
でもブログのタイトルはまだ変わる可能性あり。
ブログを始めるにあたって私がどんな人生を辿ってきた人間なのか、
まずは自己紹介をしたいと思います。
私のことを既に知っている方も、生い立ちから話したことはなかったかなと思って、
同じこと話してもつまらないので幼少期のことから話すね。
結構長いので、知ってる人は飛ばして見てね。
初めましての人は少し頑張って見てくれると嬉しいです。
読んだ暁には、私のことを前から知っている人より深く私のことを知れます。←
幼少期
生まれは大分県の宇佐市。
からあげ発祥の地(諸説あり)ですね。
2歳くらいの時に隣の中津市に引っ越したらしい。
「からあげ発祥の地・宇佐市」から「からあげの聖地・中津市」への引っ越しです。
でも高校生になって母子手帳を見るまでは出身が中津市だと思っていたし、
記憶があるのは中津市なので気持ちとしては中津市出身って言いたい。
家族構成は父、母、兄、姉、私の5人家族で、そこにハムスターがいたりうさぎがいたりしました。
当時は兄・姉の真似をして絵画教室やスイミングに通ったり、
兄が入っていたボーイスカウトの活動について行って九重連山を一晩中ハイキングしたり(この時に人生初のカップヌードルを体験)してました。
という感じに3人兄妹の末っ子として、からあげを食べてすくすくとアクティブに育った幼少期でした。
学生時代
小学生の頃は幼馴染の家の塾に通っていたので、成績は良かった記憶があります。
小学4年生からソフトテニスのクラブに通い始め、大会にも出始めました。
小学校の6年間は毎年運動会のリレー選手に選ばれていて、当時は足が速い方でした。
でも長距離は今でも苦手です。
そして中学生になりソフトテニス部に入部。
毎日放課後の部活+週2〜3回はクラブに通っていました。
がちですね。めっちゃ日に焼けていました。
私の代で入部したのは当初20人だったのですが、最終的に3年生まで残ったのは9人でした。減りすぎ。
先輩もそうだったのですが、
謎に女子テニス部にはヤンキーめな女子が集まっていたので、そこから少しキャピキャピギャルたちとも遊ぶようになりましたが、私はいたって普通の子でした。
高専時代
高校は地元を離れて大分市内の工業高等専門学校という5年制の理系の学校に進学、
毎日電車で通うと片道2時間だったので女子寮に入りました。
本当は地元の高校に行ってみんなとテニスしたいと思っていたのですが、
その時は母とも話していろいろ考えて高専に行くことを決めました。
中学卒業と同時に自分の生まれ育った土地から出て生活することは当時の私にはとても勇気のいることで、
この時が少し大袈裟ですが、人生初めての大きな決断だったかなと思います。
引越し当日はみんなに泣きながら見送られたのを覚えています。
車で高速乗って1時間半のところに引っ越しただけですが。笑
今では自分が全然中津に帰らずにカナダに住んでるよって、その時の自分に言ってあげたいですね。
しかしこんだけ涙のお別れをしたのも束の間、1年生の冬に退寮になりました。
でもなんやかんやあって、3年生になってから戻してもらえました。←
学校が5年制なので、もちろん寮でも15歳から20歳が共同生活していました。
その分上下関係や門限など様々なルールがあるので、トラブルも多々あるし大変でしたが、
それ以上に学びはあったしなにより楽しかったです。
私が親なら迷わず寮に入れますね、共同生活からたくさんのことが学べるし、親としても楽だし。笑
そしてこの学校には、微分積分などのいつ使うかわからん複雑な計算を暗算でするような桁違いの天才がいるかと思えば、
自分の机に枕と小型扇風機をセットして完璧な睡眠を追求する人もいました。
もの凄く両極端が共存していました。
授業は急に90分になるし欠点も60点ボーダーだし、私のクラスからも途中から数人留年者がでたりと、
最初は慣れなかったですが、みんなで助け合いながら日々楽しんでいました。
とにかく先生たちは授業以外何もしない学校なので、先生含めていろんな人がいる自由な学校で楽しかったです。
そして相変わらずテニスも真剣にやっていて、一年生の夏には九州大会で優勝しました。
普通の高校生の大会よりレベルは低いけど一生自慢して就活の履歴書にもドヤ顔で書きまくりました。
そして私が海外に興味を持つきっかけとなるイベントが発生したのもこの時代です。
人生初の海外、シンガポールへの10日間の交換留学。
シンガポールでは街中に超スーパーカーが走っていて、カジノもあって、ビルは凄く高くてキラキラ、、!
もちろんマリーナベイ・サンズの展望デッキにも行きました!
行ったことがある人はわかると思うのですが、あそこからの夜景はやばいです。
中津市から大分市にやっとグレードアップしたばかりのカントリーガールは、もちろんこの時ハンパない衝撃を受けました。
「日本にとどまっているのは勿体ない!」
その時こう強く感じたのを覚えています。
これが19歳になる少し前、今の海外旅行好きの私を作り上げた原点となった出来事です。
あの時すんなり海外へ行かせてくれた理解のある両親にはすごく感謝感謝だし、
しっかりとそのチャンスを掴んだ自分も褒めてあげたいです←
ということで、この高専時代で私の中の世界が大きく広がったのでした。
大学時代
高専時代に入っていた研究室が建築系だったので、
そのつながりで知り合った教授のいる愛知県豊橋市の大学へ進学。
休学を抜いたら2年間しか大学生活していないですが、そのほとんどはアルバイト。笑
一番多い時で4つ掛け持ちしていました。
豊橋市ならではの波乗り部というサーフィンのサークルに入り(ほぼ幽霊部員)、
そのつながりでサーフショップでのアルバイトもしました。
一時期はラーメン屋の夜勤明けにそのまま海まで行ってサーフィンして、波の音を聴きながら車で寝てました。なんだかヒッピーですね。
実はソフトテニスサークルにも入っていたけど、
なんとなく熱が冷めたのかアルバイト入れすぎたのか、このあたりからテニスはあまりしてないです。
そんなこんなでついに訪れた就活!
行きたかった会社にサクッと落ちました。
他に行きたい会社もなかったので、これからどうしようかな〜とサーフィンしていたら、
バリ島でサーフィンのドローン撮影をしている方に海で出会い、
海外行けば?って言われて、楽しそう!行こう!ってなって大学4年の後期から2年間の休学を決断。
ものすごい方向転換の速さでしたね!
今思うとこの時会社にすんなり落ちていて本当に良かった←
こうして私は4年生の後期から2年間休学をして、海外へと進む決断をしました。
フィリピンでの超短期留学
大学を休学したての私の英語レベルは、日本人によくありがちな学校のテストはクリアできるけど全く話せないレベルでした。
人生で一回だけ、大学に入学して最初の英語のクラス分けで受けさせられたTOEICでは確か395点。
それ以降は一度も受けていないのでわからないです。
テストが長すぎて、もう二度と受けたくないです。
自分の予想よりは良かったのですが、大学のセンター試験には500点くらいは必要と聞いたことがあるので、
一般的な大学生よりは低めだったのかなとは思います。
自分の中では英語が得意だと思っていたけど所詮は理系学生でしたね。
海外に行くと決めて休学したのは良かったのですが、
これでは海外では生きて行けないと思って、ワーホリ前にフィリピンのセブ島に短期留学に行きました。
金額を安く済ませたかったので1ヶ月半だけ笑
しかしこの1ヶ月半の間に出会った人たちとは今だに連絡を取るし、
その繋がりがその後の私の人生をさらにステップアップさせてくれました。
個人的な見解ですが、語学留学に来る人は英語が話せるようになりたい!とか、このあとワーホリに行く!という私と同じタイプの人が多くいたので、
目指す方向性が同じだとバイブスも合うので友達になりやすいのかなと思います。
私は予習・復習や宿題をやったりやらなかったりでしたが、
学校の敷地内にコンビニ的な小さなお店があって、
そこで友達とお酒を飲みながら英語で話すことが良い練習になっていたと信じています。
さらに初めてのフィリピンだったので、日本やシンガポールとはまた全然違う文化に触れられたことも貴重な経験になりました。
結果的にこの超短期留学は大満足に終わりましたが、
物価が安過ぎて調子に乗ったせいで、お酒飲んだりマッサージ行きまくってたらかなりお金を使ってしまい、その後のワーホリが大変だったので反省です。
皆さんには是非気をつけてほしいポイントです。
オーストラリアでのワーホリ
海外に行こう!と決めて、どういう手段があるのか調べたところ、
行き着いたのは留学かワーキングホリデーでしたが、留学は現実的にお金ない!ってなって、ワーホリにしました。
そして国を決めるときに、オーストラリアとカナダの二択になって、オーストラリアに決めました。
理由は、あったかいから。
オーストラリアの中でもどの都市に住もうかなとなって、パースという西側の都市に決めました。
理由は、日本人があまりいなさそうだから。
ということで英語漬けの生活にしてやるぞーと意気込んで、
パースで職探し失敗、お金ないやばい!ってなって、サーフィン繋がりで出会った人と一緒にマーガレットリバーというサーフィンの世界大会で有名な街に移動して2ヶ月ほど住みました。
その後最終的に住んだのはハービーという田舎の街で、一番長く住みました。
今はどうかわかりませんが、その当時は街に日本人が私だけだったみたいで、日本人に初めて会ったと職場でも街でも何回か言われました。
ちょっと予想していたより少ないというか、一人だったので単純にびっくりでした。
そしてマーガレットリバーで出会ってからハービーでもずっとルームメイトだった韓国人の女の子が英語がすごく上手で、
これもラッキーで英語が伸びたのかなと思います。
この子とは今でも仲良しで、
オーストラリアロードトリップ、フィリピンで年越し、アメリカロードトリップを一緒に成し遂げました。
今後も一緒に旅行に行きたいなって話しています。
当たり前ですが、異国の地で頼れる人もいないしすぐにも帰れない、言葉も通じない生活は予想以上に大変でした。
オーストラリアでの経験は凄く濃かったので、ここで書いてしまうと長過ぎて書ききれないし私もみんなも疲れるので、
機会があればちゃんと記事としてまとめてみようかなと思っています。
オーストラリアでの生活をざっくり話すとこんな感じでした。
着いた瞬間から何もわからない
↓
オーストラリアに行ったのが5月のオフシーズン
英語全然話せないし仕事全然見つからない
↓
所持金が15ドルになって帰国すらできない
↓
やっと見つけたワイナリーのファームジョブ
ブドウの木の枝を切り過ぎてばね指になる(このあと半年間くらい治らなかった)
↓
牛肉工場での地獄の労働の日々
慣れたら案外楽しい
↓
お金めっちゃ貯まるやん!車購入!やったー!
↓
大陸を西から東へロードトリップ!最高!
↓
ロードトリップ中に車上荒らしに遭いパスポートを盗まれる
↓
なんとか帰国
こんな感じでした。
総じて、初めてのワーホリだったので最初から最後まで起こったこと全てが良い経験になって、
生きていればなんとかなる精神が身につきました!
そして帰る頃には私の英語は日常会話レベルまで向上していたと思います。
もし今ワーホリに行こうか真剣に悩んでいる人がいたら、私は行くことをおすすめします!
そうじゃないと今カナダにワーホリに来ていないです。
こうして二度目のワーホリに来ているのは、
オーストラリアでの経験を素晴らしいものに出来たからなので、その時の経験が自分の今の人生をつくっているといえますね!
サラリーマン時代
オーストラリアから帰国後、休学したまま東京の祖父母の家に滞在し、ラーメン屋でバイトしながら再度就活!
そしてなんと、前回落ちた会社にどうしても入りた過ぎて、再挑戦して見事内定。
東京の港区のオフィスでキラキラOLと言いたいところですが、
現実は港区に出社してその後作業着安全靴で夜間現場入りの日も多々ありました。
ディスプレイ業界というあまり聞かない業界かと思いますが、
実は皆さんの生活に密接した仕事で、とてもおもしろくてやりがいのある仕事でした!
気になる人は調べてみてね。
そして東京で働き始めてもうすぐ一年が経つころ、
フィリピンの短期留学時代に出会った友人の一人が神戸にゲストハウスをオープンしたのですが、
彼女に一緒に働いかない?と誘われました。
彼女とは頻繁に連絡を取り合っていたのですが、
私も元々ゲストハウスは好きでやってみたいな〜と思っていたのもあり、
将来ハワイでゲストハウスするのありやな〜とか軽い感じで話していて。
そんな時、彼女が私のとこにおいでよと、と言ってくれました。
その時私は、あ、確かに別に絶対一人でやらないといけないことはないな!と気付かされました。
彼女がゲストハウスをオープンする過程で、
ゲストハウスの名前やロゴ、ベッドの形や色、布団の柄まで一緒に考えたり、現地でDIYを手伝ったりしていたので、
オープンした時はなんだか私も一緒に作りあげた感覚があってすごく嬉しくて、
そんな思い入れのある場所で、彼女と働くのってめちゃアリだなと思いました。
でも今やっている仕事も会社も人も大好きで、まだまだこれからというタイミングだったので、
私にしてはかなり悩んでその後も1年程働きましたが、最終的に退職を選びました。
最終出社日に大好きな課長から会社でシャンパンのボトルを餞別で頂いたのは内緒です。
電車で持って帰りました。またいつか会いたいです。
今でも人生で最初に社会というものを学べたのがこの会社で良かったなと思うし、
何よりここで出会った同期たちに感謝!大好きです!!
こうして、忙しくもとても貴重な経験をたくさんさせて貰った東京のサラリーマン時代は綺麗に幕を閉じました。
ゲストハウス時代
ついに神戸での新生活がスタート!
カフェバーと屋上のレンタルスペースが併設されたゲストハウスで、
友達と二人で全て切り盛りしていました。
ただ世の中はコロナの真只中で、神戸に来てしばらくの間は海外からはもちろん、日本人のお客さんさえも来ない状況が続いていました。
それでも友達と二人で働いていたので楽しかったです。
しかし私の考えの甘さから生まれた理想と現実とのギャップによって、
自分の中のモチベーションを維持することが難しくなった時期もあり、二人で何時間も話し合ったこともありました。
それと同時に、集客って、ブランディングって、お店をするって難しい・・・
こんなことを友達と二人で考えながらちょっとずつDIYをする日々でしたが、
正直私自身も期待以上の結果は出せなかったと反省と学びの多い神戸ライフでした。
神戸ではお店を経営している方と会って話せる機会も多かったので、みんな本当に尊敬でした。。
そして世界中でコロナが落ち着いてきたころ、
前から行きたかった二度目のワーホリに行くことを決断しました。
一年半というこれまた短い期間でしたが、
神戸で出会った人たちや、世界各国から宿泊に来てくれるお客さんからもたくさんの刺激を受けて、
更に新しい考え方や捉え方が出来るようになりました。
カナダへ
そして現在です。
カナダのバンクーバーに、オーストラリアに次いで2カ国目のワーホリに来ています。
なぜカナダにしたのかというと、英語圏で、アメリカやメキシコ、南米に行きやすいから。
そしてバンクーバーはカナダの中でも一番暖かいからです。
ヨーロッパもちょっと考えたのですが、物価が高いイメージがあったのと、寒そうなのでやめました。
正直いつもそんなに深く考えてないです。
でも来てみて分かったことは、バンクーバーも物価めっちゃ高くて寒いです笑
人生そういうこともありますね。
ブログは前々から始めてみようと思っていたのですが、
めっちゃ言い訳するとカナダに来る数日前にパソコンが壊れたのでなかなか始められずにいました。
でもどうせ必要になってくるしと思ってブラックフライデーで思い切ってパソコンを買ったので、
これを機にブログを始めてみよう!と思い立ったという経緯です。
私のことを前から知っている方には、
こいつ今こんなことしてるんや〜って近況報告にでもなればいいかなと思っています。
そしてカナダで生活していて困ったときに調べても、日本語で見れる情報がなくて不便だったこともあったので、
そんなときに役に立てる情報も発信していこうと思っています。
さいごに
長い長ーい文章を最後まで読んでいただきありがとうございました。
プロフィールだけで数日かかってますが、
今この最後のパートをYVRの空港で羽田行きの飛行機を待ちながら書いています。
なんだかんだ家族や友達、大切な会いたい人たちがいる日本が一番大好きなんですね〜!
それにしても毎回バタバタギリギリで空港まで行っている私が、さすがに年々成長してるなと感じています。
ここまで読んでくれている人は、会ったことないけどもう知り合い!
だって中学の同級生でもたぶんここまで私のことを知っている人は少ない!
ということで、いつものとりあえずやってみる精神でブログを始めてみますが、
やるからにはちゃんと書きたいので、感想やアドバイスなどありましたらいつでもお願いします。
それではもうそろそろ飛行機に乗りま〜す!日本食楽しみすぎる!!
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